Chapter46 潜入 (1/1)

アキラ・プロデュース『カノヱヲ・イザトラム』十一月二十一日(金)公開 壁に貼られたポスターがそう伝えている。ポスターは、ありとあらゆる場所に貼られていた。

俺たちはそのポスターの前で、彼女を待つ。 第二カスミガセキ駅の地下コンコース。 時刻は午後八時半。辺りに人はまばらだ。それもそのはず、今日がまさしくその十一月の二十一日で、午後九時からは全国ネットでこの新作が上映されるのだから。

今回の作品は、珍しくオールレイティング、つまり全てのステータスの国民に広く公開することを推奨されていた。考えるに、約一年ぶりの新作映画であったことから、審議会が政府の要望を受けて、民衆からの支持を目的に、レイティングを緩めたのであろう。 この規模の一斉上映は、そうそうないことから、これはまさに国家の威信をかけた一大イベントと言えた。審議会としても、アキラ二号機の実力を測るため、絶対に失敗は許さないだろう。

「このポスター、どうよ?」 俺は隣に立つリイに尋ねる。リイは相変わらず、いつもの服装だった。「どうっていうのは……?」「いやね、このポスター、ウチの部署で発注したんだよ」 ポスターは、主演二人の背中合わせの立ち姿、そのバストショットが使われていた。「正直微妙だと思うんだが……」「私には何とも……」「私も微妙だと思いますよ」 後ろから声がかかる。振り返れば、サングラスとハンチング帽姿の黒髪の女性。「お待たせしました」 女性はサングラスのフレームを少し下げて、目を見せる。ワダさんだった。「やあ。一カ月ぶりかな」「ええ、上映会が最後でしたからね。そんなもんでしょう」 彼女は俺の隣に立つリイを見て、言った。「お揃いですね」 確かにリイの服装も、帽子にサングラスだった。リイは僅かに口角を上げた。「じゃあ、そろそろ行こうか」 俺たちは歩き出した。何気ない風を装っていたが、その実、とても緊張していた。 これから三人で向かう場所、それはあの情報管理局第ゼロ課の入った黒いパルテノン、アキラのいるフロアだった。過去から現在までの模倣品、それらが収められた、あの巨大な空間。

地上に上がると、酷い雨が降っていた。オフィス街を激しい雨が叩きつけている。 周りに建つ高層ビルも、今日は仕事を早々に切り上げて、室内の電灯を消している。 見渡す限り、人影は全くない。俺たちにとっては都合の良い状況と言えた。 それぞれにレインコートを目深にかぶり、か細い街灯が照らすずぶ濡れの通りを歩いていく。誰も何もしゃべらない。聞こえるものは、フードを叩く雨音だけだった。 そのうちに見えてきた真っ黒な大階段を登り、俺たちは、ゼロ課のビルの幾幅いくはばもあるガラス張りの入り口の前に立った。「ああ、だから君を休職扱いにしたのか、チャーリーは」 レインコートを脱ぎながら、俺は一人ごちた。「休職中の職員証が使えなかったら、今日の計画は失敗ってことですけどね」 そう言って、ワダさんは肩にかけた小さなポーチからカードを取り出した。それをコンソールに掲げる。ピッと、高い機械音がして、自動ドアが開いた。ワダさんが振り返って俺たちに微笑む。

リイとワダさんが中へと入る。 俺は二人を呼び止めて、胸ポケットから黒縁の眼鏡とワイヤレスイヤホンを取り出した。眼鏡のフレームにある小さなスイッチを押す。耳に掛けたワイヤレスイヤホンが連動して起動する。「見えてますか?」と俺は小さな声で言った。「おー、見えてる、見えてる。音も拾えてるよ」 イヤホンから返事が聞こえてくる。ボーマンの声だった。雨天の影響はほとんどなさそうだった。現在、ビオスコープのメンバーは、賭博特区の白の塔の一室にいて、俺たちの動きを追っていた。「これからアキラのいるビルに入ります」と俺。「了解。武運を祈る」「何かあれば指示をください」 そして、俺たち三人は中へと入った。

非常用の緑の照明に照らされて、エレベーターホールへと向かっていく。途中で一度、警備員と鉢合わせそうになった以外は、順調に進んでいった。 エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。 俺は、ビオスコープから預かった映画『カノヱヲ・イザトラム』を、バッグから取り出した。それは、作品データを格納したキューブ型記録媒体だった。しかし、これから向かうあのフロアで、データキューブのまま、再生出来るかどうかは分からない。だから、データキューブにはありとあらゆる変換器が取り付けてあった。

「これだけの種類の変換器をつけておけば、どんな再生機でも接続できるはずだよ」 編集の芹沢さんはそう言って、作品を俺に渡してくれた。黒い箱からは四方にパスタのようなケーブルが何本も伸びていた。

「これをアキラのいるフロアで再生すればいいんですか? そしたら全国に配信されると……?」 ワダさんが俺に尋ねる。「まあ、簡単に言えば。正確には、フロア内に設置された、再生するための部屋があるから、そこまでいかないといけない」「……部屋?」「ああ……娘のための部屋って呼ばれてる部屋があるんだよ」「何ですか、それ?」「知らないよ。一回、アキラの見学に行った際に説明されただけで、中がどうなっているかは知らない」「でも、そこで再生すれば配信されるんでしょう?」「そういう風に、広報課の奴らは言ってた」「じゃあ、いつもは誰かが中に入って、再生ボタンを押してるってことですか? それってマズくないですか? 今日もこれから、アキラの作品が流されるわけですけど……」「分かってるよ。そのために彼がいるんだろう」 俺はリイを見る。「それにこのエレベーターが到着した先でも、一つ障害がある」「障害?」 エレベーターの階数表示が、もうすぐ最上階を示す。 リイが狭いエレベーター内で、軽く伸びをする。すみませんと断り、彼はクラウチングスタートの構えを取った。ワダさんはそんな彼の様子に戸惑っている。 エレベーターが到着を告げて、ドアがゆっくりと開いた。

その瞬間、リイはエレベーターを飛び出した。正面の扉、その脇に控えるオードリー・ヘップバーンめがけて。 そして事は一瞬で終わった。

顔に似つかわしくない罵詈雑言を口にして、オードリーはリイに腕を取られて、後ろ手に捕まえられた。イヤホンの奥から、オードリーの複写生命に対する驚きと、リイの動きに対する称賛の声が聞こえてくる。「やっぱりありましたね、ここに」 リイが、オードリーのいた受付台の下を顎で示す。覗いてみると、赤いボタンがあった。恐らく警備に通報するためのものだろう。「押されたかな?」「いえ、エレベーターが開くのと同時に捕まえましたから、押してないでしょう。来たのが我々だと、視認する暇もなかったはずです」「そうか。まあでものんびりするだけの時間もないな」 俺は腕時計を見る。時刻は、午後九時十分前だった。「すみません」 そう告げて、リイはオードリーの首を強く殴打した。気が抜けたようにオードリーは倒れ込んでしまう。「ちょっと! 大丈夫なんですか?」とワダさん。「大丈夫です。気絶しているだけです」 リイは、彼女の体を抱き起して、右腕を取った。そしてその掌をアーチ状の金属の扉に押し当てた。機械音が鳴り、扉が開錠された。

「急ごう。中に入ります」イヤホンの向こう側にも呼び掛ける。「了解、アキラの中を見せてもらおうじゃないか」