Chapter47 黒い小袖と袴 (1/1)

俺は扉を押して開いた。 室内から冷えた空気が流れ出てくる。 長く仄暗い廊下を、早歩きで突き進んでいく。相変わらずアキラの作った本物そっくりの絵画たちが、スポットライトに照らされて、時代順に飾られている。

廊下の突き当たりで、開けた大きな空間に出る。下へと続く螺旋階段を下りていく。「何ですか、ここ……」 ワダさんが呟く。

階段を下り切る。 記憶をたどり、例の部屋へと向かっていく。どこかに一人くらい職員がいるかと思ったが、誰にも会うことはなかった。 三人の足音だけが遠くで微かに反響をしている。 虹色に輝く湖面、ハスミ機関の脇を通り抜け、俺たち三人はそこに到着した。まるで小さな箱をひっくり返したような、その部屋に。

「ここですか、娘のための部屋っていうのは?」 ワダさんが尋ねる。俺は無言で頷く。それから後ろに立つリイを見る。彼も無言で頷いた。イヤホンの向こう側も押し黙ったままだ。

部屋のドアは、引き戸だった。 左手から右手にスライドさせるドア。 指を掛ける溝に手を近づけて、俺は、止まった。 思考する。

映画の上映は、もう間もなく始まる。もし本当にオードリーや広報課の職員が言っていた通りなのだとすれば、この中には誰かがいるはずだった。アキラ二号機が作った映画を再生するための誰かが。

アキラそのものは通常のネットワークからは切り離されていたし、彼の作った作品は何がしかの記録媒体に必ず保管されていた。だから、世の中に出すための人的資源が必要なはずだった。

もしも、この中に誰かが——例えば審議会の一人などが——いたとしても、俺たちにはリイがついている。暴力に頼るわけにはいかないが、かといって過剰におびえる必要もないだろう。

俺は、ドアを引いた。鍵は掛かっていなかった。

目の前に、m class="emphasisDots">黒い装束の男がいた。

その瞬間、俺は思い切り、後ろへと引っ張られた。 それと同時に、鼻先を光の筋が走る。 そして誰かの叫び声。「危ない!」

俺は、リイに腕を掴まれて、彼の後ろに投げ飛ばされた。受け身なんぞ取れるはずもない。地面にぶつかって、転がる。遠慮のない鈍い痛み。状況が全く飲み込めない。「どうした? 大丈夫か!」 イヤホンから声が響く。俺は、めまいを堪えるように頭を振って、隣を見る。「いった……」 ワダさんも地面に転がっていた。手を突いて起き上がろうとしている。彼女も、リイに放り出されたようだった。 痛みを押して、俺も身体を起こす。「映像が届いていないが、大丈夫か! 何があった?」 チャーリーの声が耳元で響いた。 眼鏡のレンズが割れていた。「カメラが壊れたようです。俺も彼女も無事ですが……」 しかし、一体何が……俺は正面を見やった。ひび割れた視野の先に、m class="emphasisDots">それはいた。

考えてしかるべきだった。ブルース・リーの複写生命がいるんだ。他に誰がいたっておかしくない。そして今目の前にいる奴は、俺でも十分に知っていた。

黒い小袖と袴——『用心棒』。アレは、三船敏郎だ。彼が部屋の前に立っていた。

「イチカワさん……」ワダさんが立ち上がって、俺の傍まで寄ってくる。「荷物が……」 俺は声を掛けられて、自身のバッグを見る。 ゾッとする。 バッグが真っ二つに裂けて、中身がこぼれ出た。 正面を見る。三船の構えた刀が禍々しい光を放っている。 先ほど見た光の筋は、アレだったのだ。恐ろしく速い太刀筋。リイが俺を投げ出していなければ、俺の身体も切られていたに違いない。「イチカワさん! キューブが……」 下に散らばった荷物を見た。「マジかよ……」 データキューブが真っ二つになっている。素人の俺が見たってハッキリしている。これではどうやったって再生は出来ない。「どうした……? 何があった?」 イヤホンの向こう側から、戸惑いの声が聞こえる。「……キューブが破損しました。再生は、出来ません」 俺は苦々しく言った。「どうしますか? 予備を取りに戻りますか?」 俺は視線を上げた。膠着状態の二人を見る。刀を上段に構えた三船敏郎とジークンドーで相対するブルース・リー。お互いにお互いを睨み合ったまま、動かない。「そこからここまで何分だ? 一時間弱か? こっちで新しいものを用意して誰かを向かわせても、かなり上映した後になるな……」「もうダメですね。上映が始まります」 腕時計を見る。長針が九時ちょうどを差す。 開いたドアの向こう側から、音が漏れ聞こえてくる。 上映開始のファンファーレ。 架空の制作会社のテーマサウンド。そして——

『映画が始まったから、邪魔者を早くどかしてちょうだい』

声がした。〝娘の部屋〟から、聞きなれない声が聞こえてきた。悪寒が背中を走った。 何だ、今のは……誰かの声なのか? 誰かがあの部屋の中にいる! だがそれは、全くもって、人間の声ではなかった。一体何が、何があの中にいるというのだ? そして突如、途切れがちになるイヤホン。ノイズが入る。「……? チャーリー、聞こえますか?」 チャーリーたちの声が、聞こえにくくなる。一気に血の気が引く。 俺は必死に呼びかけた。だが耳に届くのは、一万光年も遠くに聞こえる声と砂嵐の響きのみ。「大丈夫ですか?」とワダさん。「分からない。イヤホンが遠い。指示が聞けない」

次の瞬間、動きがあった。