第35話『もうちょっとだけ』 (1/2)

「ご来店ありがとうございました」

どこか誇らしい表情でそう口にした店員に見送られ、優人と雛はデザートビュッフェ店を後にした。 店員の腰を折った礼が心なしか深く丁寧に思えるのは、きっと直前の雛の行動によるものだろう。

『とても美味しかったです。今夜はありがとうございました』

安奈と交わした口約束程度の会話すら忘れず、雛は店員に向けて心からの笑顔と賛辞を述べた。 横で見ていた優人ですら一瞬見惚れてしまったのだから、真正面から向けられた店員の心に与えられた破壊力は計り知れない。相手が女性だったから良かったものの、これが異性である男性だったらどうなっていたことか。

「はあ……美味しかったあ……!」

最寄りの駅まで向かう道すがら、すっかり夜の闇が濃くなった寒空の下で、隣を歩く雛が空へと両腕を大きく伸ばす。店で体験した興奮はまだ余韻を残しているのか、全身を微かにふるふると震わせているのが何とも可愛らしい。 これで雪の一つでも降れば、寒さで赤らんだ頬や幸福で彩られた表情も合わさってさぞ絵になることだろうけど、生憎と今年のクリスマスイブは終日晴れ模様である。

微妙にもったいないものを感じながら頬を緩ませた雛を眺めていると、やがて優人の視線に気付いた彼女は顔をほんのりとりんごの色に染めて腕を下ろした。 白い手が、ニットセーターの上から満足そうにお腹をさする。

「もうお腹いっぱいですよ」「そりゃあんだけ食べたらなあ。空森があそこまでイケるとは思わなかった」「何ですかその目は、太るとでも言いたいんですか」「そんな水を差すようなこと言わねえよ。普段から食生活には気を付けてるみたいだし、今夜ぐらいは無礼講ってことでいいだろ」「ならいいです。もし無粋なことを言ったら、先輩のお腹を小突いてやろうと思ってました」「俺も結構食べたんで勘弁してくださーい」

雛はもちろんのこと、優人だって大いに食事を楽しんだからお腹だって膨れている。割と苦しいものも感じている手前、下手な刺激は勘弁して欲しい。 おどけたような優人の態度に雛はくすりと笑みを浮かべると、ふとため息には及ばない緩い息を吐き出した。

「まさか先輩のお母様が出てくるとは思いませんでしたけどね」「それに関しては俺も予想外だったよ。ああ、あくまで友人として来店しただけだってのは口酸っぱく言っといたから、そこは安心してくれ」「…………」「空森?」「あ、はい……あ、ありがとうございます」

何だか微妙に煮え切らない様子の雛。 気になりはしたが、すぐにその表情を引っ込めて前を向いてしまったので、優人も深い追求はしないことにした。 それから、あれが特に美味しかった、これに驚いた、なんて他愛もない感想を交わし合っていれば最寄りの駅へと到着した。

「さてと、じゃあこれで帰るか」

クリスマスイブという日のせいでこれから夜の街に繰り出そうとする人の姿も多く見受けられるが、時間としては良い頃合いだと思うし、用件だってもう果たしたのだ。 恋仲でもない相手をあまり長時間連れ回すわけにもいかないと思って雛に尋ねると、まるで改札へ促す優人を引き止めるかのように、雛はその場に立ち止まった。

「空森?」「……えっと、その」

優人と地面を行ったり来たりする金糸雀色の瞳。覚束ない視線の往復はとても忙しない。 やがて手提げの紙袋を持った手を胸に当てて深呼吸をした雛は、小さな舌で唇を濡らしてから、ゆっくりと口を開いた。

「もうちょっと、寄り道しませんか?」

かさり、と紙袋が音を立てた。