Chapter12 デイビッド・ボーマン (1/1)

ドアを開けた先は、すり減った黒いベルベット地の床と、くたびれて色あせた木目の壁の古風なバーだった。 中は二、三十人ほどの客が入れる大きさで、事実、立ち飲み客も含めれば、店内は満席のようだった。 そんなこともあり、客同士の会話は弾んでいて、俺がその店に入ったことに気が付いたのは、入り口付近にたたずんでいた数名の客だけだった。だが、彼らが俺に声を掛けることはなかった。

俺は、目立たないように頭を低くして、素早く周りを見やった。 とにかくまずはマスターに会わなくてはいけない。きっとその人物こそが、この地下組織を作った政府上層部とのパイプ役に違いない。ここにいることの居心地の悪さを、一刻も早く解消したくて、俺はそのマスターとやらを探す。

右手の奥、少し開けたホールの先に、カウンターを見つける。カウンターには、カクテルをシェイクする壮年の男が立っていた。俺は当たりを付ける。彼がマスターに違いない。

カウンターへ向かう。途中の道を遮る客に怪しまれないよう、俺は何気ない調子で歩を進めた。まるでこれまでもここに通っていたことがあるかのように。 カウンターに腰かける客と客の間に、俺はすっと入り込んで、マスターを見やる。白髪交じりのオールバック。高い鼻。歳は四十代後半くらいだろうか。 彼は、俺の視線に気が付き、拭いていたグラスを下に置いた。「ご注文は?」 俺は、思案する。「玄関先で寝ころんでいる彼に、ビールを一つ」「ああ、チャーリーにね」「チャーリー?」「そう。放浪紳士のチャーリー」そして彼はホールの一人に向かって声を掛けた。「おい、シュピルマン、これをチャーリーに」 呼ばれた男は、カウンター越しにビール瓶を一つ受け取って、玄関に向かった。背が高く色白な男だった。 それからマスターは俺に向きなった。

「私はここで、デイビッド・ボーマンと呼ばれている」 2001年宇宙の旅——彼女に勧められ、観たうちの一本。スターゲイトをくぐった男。

「君は?」「タン・ロンです」「……カンフー映画か。カンフーが好きなのか?」「ええ、まあ」「あの怪鳥音とパンチは、画期的過ぎて笑えるよ」 マスターは拳法の構えらしきポーズを取る。そして次の瞬間、風切り音と共に、拳を俺の鼻先寸前に繰り出した。俺は思わずのけ反ってしまう。「ははは、すまない、すまない。いや、ちょっとね」 何なんだ、一体!「ついね、やってみたくなっちゃって」 そう言って、ボーマンは笑った。 本題に入ろうと、俺はカウンターに身を乗り出す。「ところで、あなたがここのボスなんでしょう?」ポケットから紹介状を取り出して見せる。 ボーマンはそれを一瞥する。「いや、違うよ」「……違うんですか? あなたが僕をここに呼んだのでは?」「呼んだ? 何を言っているんだ」「でも、あなたがここのトップなんでしょう?」 俺は変な汗をかきそうになる。「ああ、そういう意味か。いや、私は……そうだな、ナンバー2と言ったところだ」「ナンバー2……」 それじゃあ、意味がない。トップでないのであれば、今目の前にいるこの目鼻立ちの整った男は、真に映画が好きで、ここにいることを自ら選択した、犯罪予備軍の一人だった。俺のこともきっとそういう風に見ているのだろう。勘弁してくれ——俺は、声を絞り出す。「じゃあ、ボスはどこにいるんですか? 僕はボスに挨拶をしたいんですが……」「大丈夫だ。君のことはボスから聞いているよ」 それだけ言うと、ボーマンは俺にニッコリと笑いかけた。そしてシェイカーを手に取って、酒を作り始める。氷の砕ける音が聞こえる。 意味が分からない。このままじゃ埒が明かない。俺は、それでも食い下がる。「いや、でも、僕はボスにですね……」 声に僅かな苛立ちが混じる。「ボスはいない。ここにはね」「いない?」「ああ、彼はほとんどここには来ない」「来ない?」「そうだ。彼が最後に来たのだって、一、二カ月は前じゃないのかな」「ちょ、ちょっと待ってください。彼はここには来ないんですか?」 俺は頭を抱えそうになる。事実、足下がふらついている。「まあ、良いじゃないか。何も問題はないよ。君はここに招待され、無事に門を潜り抜けて、私たちの仲間に加わった。今日は映画好きが、二人も増えたわけだ。実にセレブレーションな日と言っていいじゃないか」 俺は何も言えない。一刻も早く家に帰って、上層部と連絡を取りたかった。「マティーニだよ、007の」 彼は俺の前に一杯の酒を出して、嬉しそうに笑う。 あんな出会ってすぐにセックスするようなスパイが、どこの国にいるっていうんだ。俺はそう叫びたいのを我慢して、一気に飲み干した。