Chapter1 取り締まり (1/1)
不浄なインクは全て雨が覆い流し、過ちは涙が拭い去るだろう。
* * *
俺は濡れた手で、インターホンを押した。 被疑者が出てくるのを待つ。 激しい雨がトタンの屋根を叩きつけている。
俺たちは今、夕方の暗がりの中、川岸に建つぼろい小さなアパートメントの二階の一室、その玄関の前にいた。 土手沿いに遠くまで並ぶ街灯は、黄色やオレンジの不揃いな光をか細く点滅させていて、足まで羽織った透明なレインコートが、梅雨の湿度でワイシャツにぴったりと張り付いていた。 インターホンは返事をしなかった。 聞こえてくるのは、機銃掃射のような雨音だけだった。 俺は、後ろに控えた二人の職員を向いて、肩をすくめた。
被疑者:サイトウ・ギンザン
ドアの名札を再度確認し、俺はインターホンをもう一度鳴らす。 反応があった。部屋の中から音がした。「荷物のお届けに上がりました」 俺は平然と嘘をつく。 ドアが少しだけ開いた。俺と年端の変わらない、三十過ぎの男が顔を出した。髭面で、整えていない髪。黒縁の眼鏡によれよれのティーシャツ。 スーツ姿の俺と、後ろに控える青い作業着の二人に目をやって、サイトウは事態を察したようだった。目に動揺が走る。 俺は胸ポケットから令状を取り出す。「サイトウ・ギンザンさんですか? 私は
俺は一人、部屋の中で、被疑者の部屋を見回した。
本棚にぎっしりと詰まった小説や漫画。 床に散らばる映画のパッケージ。 カビの生えたようなアナログテレビ。 垂れ流される古い海外のメロドラマ。
そして、机の上に置かれた原稿用紙の束に目が留まる。パソコンで打ったものを出力したものだろう。
タイトルと
俺はその印刷された
この辺りは、トーキョーの中でも、地面の乾かない日はないm class="emphasisDots">汚泥指定地区だった。 建物と建物の間に、ぼろい木製の渡し板が張り巡らされている。俺はその上を歩いて、アパートメントの裏手へと向かった。 一階区画はかつての浸水後、打つ手なしと判断されたのか、今は誰も住んでいない様子だった。 砂利の敷かれた駐車場に出ると、シュンジが後ろに腕をとって、サイトウを地面に押さえつけていた。この悪天候の中、泥にまみれてよく働く――俺は感心した。「逃げちゃダメですよ」 俺は、サイトウに近づいた。「この、公僕が……」 サイトウが俺を見上げて、罵った。 俺は屈みこんで、砂で汚れた被疑者の顔を覗き込む。「そういう言い方は良くないですよ。私たちも好きであなたを逮捕するわけじゃないんです。これは仕事なんですから」「俺が何をしたっていうんだ? 何にも悪いことはしてないぞ!」「したでしょう。あなたのこの小説? いや、脚本なのかな? これ、ネットに上げたでしょう?」 俺は、手にした原稿の束を見せる。土砂降りの雨に打たれて、インクが滲み始めている。「あなたがね、自分で作る分には別にいいんですよ、自分で楽しむ範囲でなら。でもね、公開をしちゃあいけないでしょう? それにそんなことをする必要もない、今この時代には」「……公開して、何の問題があるのか分からない」 俺は首を横に振った。「あのねえ、サイトウさん、あなた歴史の勉強をしてないの? 創作物が人に及ぼした悪影響を知らないわけがないでしょう?」 サイトウは何も言わない。俺は濡れた原稿をめくってみせる。「ほら、例えばこのセリフ、あなた、このセリフを自分の娘さんに言えますか? こんな恥ずかしい台詞を。こんな女の子、現実にはいませんよ」「娘なんかいねえよ」「別れた奥さんとまだ幼い娘さんがいるでしょう?」「……お前らは、本当にクズだな」 俺は、サイトウの前髪を掴んで、頭を持ち上げた。犯罪者と目がかち合う。「あんたね、バカにすんのも大概にしときなよ。課長補佐の俺が、わざわざこんな雨の中、出張ってきてるっていうのに」 俺の顔に、サイトウの唾が飛んだ。 俺は、サイトウの顔を地面に叩きつけた。立ち上がり、ハンカチを取り出して、顔を拭った。 それから、俺は湿った原稿をびりびりに破いた。 落ちた作品の欠片を思い切り、サイトウの目の前で踏みつける。奴の顔に悲壮の色が浮かぶ。「あんたの作品は全て消す。一切残らず全部だ」 俺は吐き捨てるように言った。「こんな妄想にいつまでも逃げ込んでいる場合じゃないでしょう。あんたみたいな人間はいい加減、もっと切実に現実を生きるべきだ」 サイトウは、うめき声を上げて、うなだれた。「あとはよろしく。俺、今日はもうこのまま帰るから」 シュンジにそう言って、俺はその場をあとにした。 腕につけた情報端末を見ると、通知が一件届いていた。今晩から上映する映画の鑑賞案内だった。 どこかで着替えないといけないな——俺は足元の泥を見ながら、そんなことを考える。後ろで響く泣き声が聞こえないフリをしながら。
〇著作に関する禁止事項を定めた法律(以下、「著作禁止法」とする) 第三条 何人たりとも創作を行い、それを公表してはならない。