「てめえ! この人殺しめ」 その場を立ち去ろうとする純有の胸ぐらを、地面から跳ね起きた桂川龍介が掴む。「手を放してください」「放せるか! 警察に突きだしてやる。人を刺しやがったな」「人は刺していません」「しらばっくれるな。俺はこの目で見てたんたぜ。悪党が」「あれは人ではありません。あやかしです」「坊さんよ、あんた頭は大丈夫か」「あなたこそ大丈夫でしょうか? わたしが忽那青紀を刺したと仰るが、その後彼が、どうやって逃げたか覚えてませんか」 胸ぐらを掴む力が緩み、龍介の表情が呆然としてくる。純有の攻撃と忽那青紀の流血に興奮し混乱した思考が、指摘されたことで正常になったらしい。「あれは……いや。まさか。あんなのは、軽業師にだってできやしねぇ」「あやかしです」 手を放させると、純有は乱れた襟をなおした。「忽那先生が? まさか。莫迦莫迦しい」 笑おうとした龍介に、純有は軽蔑を込めた眼差しで言う。「では、あれはなんだと?」 龍介は沈黙した。「あやかしなのです。一緒にいた娘も、その仲間です。わたしには、あやかしから人を護る勤めがあり、それに従っているまでです。あなたも、あのような者どもがこの東京市に巣くっていることを覚えておいた方が良いでしょう。わかりましたか。人を悪党呼ばわりする前に、事実を知ってください」 きびすを返して歩き出そうとした純有の背に、龍介の低い声が当たる。「いや、あんたは悪党だ」 悪意のこもる言葉を、無視しようと思えば無視できた。 だが「悪党」呼ばわりは聞き捨てならない。純有は人の世の秩序を護るために、幼い頃から厳しい修行に励み、自身を律しながら生きているのだ。見るからにいい加減な生き方をしていそうな男に、悪党呼ばわりされるのには苛立つ。「事実を理解していないのですか?」 ふり返ると、龍介の真剣な目が純有を真っ直ぐ見つめていた。「理解してるさ。忽那青紀はあやかしかもしれねぇし、あの娘はその仲間かもしれねぇ。あやかしとその仲間だってなら、信じてやっても良いし、信じるしかねぇ」「それを理解しているのなら」「だからって、忽那青紀を刺したら悪党だろうが」「あやかしです」「あやかしでも、人でも、あの先生やあの娘が、あんたや世間様に何かしたのかい。俺には何をしたようにも見えなかった。それを刺すのは悪党だ」「あやかしは、人と相容れぬ存在。人に害をおよぼし」「人間の中にもなぁ、他の人間と相容れない、害をおよぼす奴はいるぜ」 相手の言葉を意図的に遮る龍介に、純有は眉をひそめた。失礼な奴だ。「時には、そのような人もいるでしょう」「だったらあんたは、人も刺すわけか」「刺しません。人とあやかしは違います」「どう違うよ」「あやかしは人に害をおよぼすと、先ほど」「全部のあやかしが、そうなのかい!? 全部の人間が善人じゃないのと同じで、全部のあやかしが悪さするってわけじゃねぇだろ。それとも、全部が全部悪いのか。俺は忽那青紀に仕事を頼まれて、ちゃあんと報酬まで払ってもらった。いい客だったぜ。成果が出るまで二年もかかっても、あの娘を見つけたときには褒めてくれた。それにあの娘は、四つのときに親に捨てられて奉公人になって、苦労しっぱなしで大人になった。しかもそのあげく、次々に嫁が死ぬ家に嫁がされそうになったんだ。忽那青紀は陰で何か悪さしてんのかもしれねぇが、俺は知らない。あの佐名って娘については、人に害をおよぼすなら、とっくの昔に奉公先の主人をぶっ殺すか、店を傾かせてるぜ」「それは」 反論を試み、純有は言葉を探しあぐねた。 ──あやかしは人に害なす存在 ──あやかしは滅すべし ──焔一族は、人でありながらあやかしの力をあやつる、邪悪な者たち ──焔一族は一掃するべし 妖狩寮の律の中に言葉を探そうとした。 しかし龍介の言葉を覆す答えを見つける前に、今度は龍介の方が純有に背を見せた。「これ以上、悪党と話なんかできねぇ。口が腐る」 錫杖を握る拳に力を込めた。常に平坦な純有の心に、怒りに似たものが芽生えた。これは、自分に対する侮辱だと。「ぼんさんの、負けや」 ふいに頭上から聞こえた、幼い女の子の声。 純有は錫杖を構えて飛び退き、上を見た。 寺の境内から道へと張り出している大きな柿の木の枝に、赤い着物を着たおかっぱ頭の女の子が座って、足をぶらぶらさせている。「あやかし」「せや。人から童とか呼ばれるで。たまには、童様とかな」 気負わず答えた女の子はにかっと笑う。「うちは、人に悪させえへんで。悪戯はするけどな。人の家が気に入ったらそこに住んで、ええこといっぱい連れてきたるんや」「座敷童か」 あやかしの正体を察し、純有は構えをとく。「あやかしでも、うちは悪させえへんよ」「あなたは特殊でしょう。そのような例もあると、知っています」「うちのことは刺せへんの」「あやかし滅すべし、が我々の律です。しかしあなたは例外ですから」「せやから、ぼんさんの負け。悪さするのは、あやかし全部ちゃうやんか。あの兄ちゃんのが正しいで」 純有は溜息を吐き、ものの道理が理解できぬらしい幼いあやかしを諭す口調で告げる。「わたしは、妖狩寮の律に従っているのです。天子様をお護りするために存在する我々は、天子様の律に従っている。それが間違いだと? 律はあなたのような例外のことを、事細かく定めていないだけで、間違いではないのです」「きまってないことが、あるんやね。それは大変や」 何が大変なのだろうかと問い返す前に、座敷童は枝の上に立ち上がると、両腕を広げ、着物の袖を見せびらかすようにした。「ええやろ。可愛い、赤いおべべ」 急な話題の転換に、純有は苦笑した。苦情を言う気にもなれない。「ええ、可愛いですね」「これ、ぼんさんが殺そうとした姉ちゃんが着せてくれてん」 そこで座敷童は、その幼い姿にそぐわない理知的なものを瞳に光らせた。「ぼんさん。よう、知っとき。お天道様だって間違うことはあるんよ。姉ちゃんよりも、退治せなあかん怖いものはぎょうさんおるで。堂島の異形の者はもう五人もお嫁さん殺しといて、これからもずっと殺し続けるんやから」 とんと枝を蹴ると、座敷童は本堂の向こうへ飛んで行き姿を消した。(お天道様が間違う? 不遜なことを) 見送った純有の胸には、不快感に似た得体の知れないものが渦巻く。(しかし聞き捨てならないことを言っていた。五人も殺した異形の者がいると)
大政奉還がなされ、江戸から明治へと。古い時代から新しい時代へ移るとき、権力中枢の組織も変わっていった。国の柱である帝を霊的に護る陰陽寮は、時代にそぐわないという理由で、政権を握った維新の士たちの手により廃止されたが──。 公卿たちは霊的に帝を護る必要性を、千年の長きにわたり実感していた。そこで密かに陰陽寮に替わって帝を守護するための組織を作った。 それを妖狩寮という。 陰陽師のみならず、密教僧や修験者も含めて作られた妖狩寮の最大の目的は、帝を護り奉ること。そのためには旧時代から残り続け、人に害をおよぼす胡乱な者たちを掃討する必要がある。妖狩寮に属する者は、あやかし、異形の者、怨霊を滅する。帝政の霊的な番犬と呼んでさしつかえない。 純有も、番犬の一人だった。
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「わーん! 青紀様、青紀様! 大丈夫ですか!? 怪我をなさるなんて、なんてへっぽこ野郎なんですか」「……黙れ。殺すぞ」 血まみれで家に戻った青紀の姿を見た茶釜は、駆け寄ってきて裾に取りすがり、わんわん泣きながらひどいことを言う。心から心配しているのは、泣きわめく様子から明らかなのだが、どういうわけか口からは毒が飛び出す。 佐名を玄関に下ろすと、青紀は力尽きたようによろけた。彼の体を支えると、焦り慌てながらも茶釜にお願いした。「茶釜。床を延べて、その上に綺麗な布を敷いて。それから湯を沸かして、傷の手当てができそうなものを、なんでも良いから持ってきて。できればお医者様を呼んでもらえたら」 泣きながらも茶釜は「はいっ!」と勇ましく返事をし、駆けだす。 朦朧としているらしい青紀を支え、彼の部屋へ連れて行き床に寝かせると、着物の前を広げる。 なめらかな脇腹はぬめった血にまみれ、傷そのものすら確認できない有様だった。 茶釜が用意した湯に布をひたし、血を拭うと、ようやく傷が見えた。 傷の大きさはさほどではないが、深そうだ。傷の近く、胸の下辺りには古い傷跡があった。真横に、ぎざぎざに切り裂かれたらしく、かつての傷がどれほどのものだったかを想像すると、ぞっとした。「こんな傷を」 思わず声が出ると、茶釜が佐名の手元を覗き込む。「それは十五年前の傷だと聞いてます。命に関わるような傷を負ったって。それに比べたら今回の傷は、まだ軽いです。うん」 自分を励ますように、茶釜は言う。(十五年前?) 思い出すのは、四歳の佐名の前に青紀が現れたときのこと。彼は血にまみれていた。(まさかあのとき) あのとき、いったい何が起こっていたのか。それについて考えを巡らせる暇は、今はなかった。目の前の傷の手当てが先だ。 血は止まっているらしかったので、傷口に布を強く押し当て、茶釜に手伝ってもらって包帯を巻く。 傷を洗う間、青紀は痛そうに顔をしかめていた。されるがままに包帯を巻かれ、着替えをさせられると、彼は再び横になり目を閉じて眠り始めた。 長い睫が作る陰影が目の下にかかり、顔色を一層不吉なほど青く見せる。彼の眠り方は呼吸音すらしない静かさなので、死んでいるように見えた。「茶釜。お医者様は来ないの?」 枕元に座った佐名は、隣にちんまり座っている茶釜に問う。「ぽん。昔はあやかしを診てくれる医者もいたそうですが、今はいないんです」 しょんぼり項垂れ、目元を拭う。「でもでも。へっぽこでも、ぽんこつでも、青紀様は青紀様ですから。死にはしません。大丈夫です。そんじょそこらの、雑魚あやかしとは格が違います」 彼の額に手を触れると、ひんやり冷たい。呼吸も浅い。心配でたまらず、枕元を離れられなかった。長い時間、眠る青紀を見守った。 真夜中を過ぎる頃。茶釜が舟をこぎ始めたので、「わたしが見ているから寝ておいで」と、子狸は自分の部屋に帰らせた。(わたしのせいだ。あの純有という僧侶からわたしをかばって、こんな怪我を) 申し訳なさがこみあげて、いたたまれない。今すぐ言葉を尽くして謝罪し、感謝したいのに、青紀は死体のように眠ったまま。このまま彼が目覚めなかったらどうしたら良いのだろうかと、不安が大きく、まんじりともせずにいた。(喰うって、脅したくせに) 出て行くなら首を噛みちぎるとまで言ったのに、彼は噛みちぎるどころか、体をはって佐名を護ったのだ。 矛盾する言葉と行動、どちらを信じるか。そんなとき佐名は、言葉よりも行動を信じるべきだと知っていた。口ではどれほど酷いことを言っていても、実際に助けてくれたことが、彼の心を示してくれる。 青紀は、佐名を喰うつもりなど毛頭ない。喰うの噛みちぎるのと口にするのは、ただの脅し。心にもないことなのに、佐名をこの家につなぎ止めるために口にしていたのだろう。 そのやり方は、ひどく不器用だ。(あやかしだからなのかな?) 布団の上に投げ出されている手に触れる。(この人の目が覚めたら、ちゃんと話を聞くんだ) 突然この家に連れてこられたうえに、青紀の意地悪な言葉に腹を立て、ろくに話も聞こうとせず、とにかく逃げだそうとばかりしていた。怖さと、青紀への腹立たしさとともに、この家にかつて住んでいた母親を厭う気持ちがない交ぜになって、佐名を頑固な拒絶に走らせていたのだ。 だが、こうして傷を負ってまで佐名を護った姿を見せられては、頑なな気持ちは、砂のお城のようにさらさらと崩れてしまう。(お願い。目覚めて) 青紀の手を持ちあげて、両手で柔らかく握り胸に押し当てる。 純有というあの僧侶は、なぜこんな真似をしたのだろうか。なぜ佐名を狙ったのだろうか。 堂島から逃げ出した日、佐名の姿を見かけた彼はこちらに手をさしのべ、助けようとしてくれた、と思う。 しかし次に出会ったときには、怖い目をして追ってきた。 そして今日は佐名を焔一族と呼び、殺そうとまでした。 焔一族とは、何か。そしてなぜ純有に命を狙われるのか。 疑問が多すぎる。 ランプの灯りを小さく絞って、薄暗くした室内で佐名はずっと座っていた。
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青紀は夢を見ていた。 二百年前の夢だった。この地がまだ江戸と呼ばれていた頃の、遠い昔の記憶の夢。長い年月を生きた彼の記憶は膨大すぎて、多くは忘れてしまうのだが、その記憶だけはいつまでも鮮明で、ことある毎にこうして夢に見る。 ──はぐれ者同士よね、わたしたち。 江戸の町で出会った少女はそう言って、傷ついて動けなかった青紀──そのときは、また別の名だったが──に手をさしのべた。「家を作らない?」と彼女は微笑んだ。「はぐれ者が、安心して眠れる家よ」と。 彼女の名は、菖蒲と言った。 生を受けて百年。術者に故郷を追われてから、あのときにようやく安らげる場所を得た。(菖蒲) 菖蒲と作った家を護り続けたい。それが青紀の願いであり、そして護り続けることが菖蒲との約束だ。彼は何人もの主と、いくつもの約束をしているが、その中で最も大切なものが菖蒲との約束だった。 懐かしくて愛しい、最初の主。 あれから何人もの主に仕えてきたが、菖蒲ほど青紀を安心させてくれる主はいなかった。特別に印象深い主もいなかったのだが。 佐名。 十五年間、捜し続けた少女の名が浮かぶ。新しい主となるべき少女の名は、その姿を見失った日から青紀を不安にさせる呪文のようだった。彼女はいつ見つかるのか。見つからないのかもしれない。そうなったとき、青紀はどうするのか。 必死に捜して、見つけた。しかし見つかった主は、青紀を安心させてくれるどころかますます不安にする。(あれは、ただの人間の娘だ。あんなものを、どうすればいい) 主としての威厳も、信念も、知識もなく。ただふんわりとした気配を漂わせる、普通の娘。どんな経験をしてきたのか、強気で明るい表情をしているくせに、目の奥に哀しみがある。 それを見ると、胸がざわざわした。 そのときふと、自分の傍らに柔らかい感触を覚える。温かい空気を抱えているような心地よさに、正気づく。この温かさはなんだろうかと、ぼんやり目を開く。 自分の傍らに丸まっている、佐名の姿があった。すやすやと眠るその顔は幼く見える。(わたしのそばに、主がいる) 青紀を不安にさせても、頼りなくとも、主は主だ。「佐名」 名を呼んだ。