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「たっだいま〜!」「…お邪魔します」 蛾や羽虫がひしめき合う外灯に照らされたアパートの一室、それが蛍さんの住居。 およそ八畳ほどの部屋は、観葉植物や背の低い家具類で彩られて小綺麗に見えたが、よく見ると流し台には汚れた食器が積み上げられ、床には酒の空き缶が転がっている。 蛍さんがこんなにもだらしない人間だなんて知らなかった…と密かにショックを受けた。「あっ…やっば……」と呟いた蛍さんは気まずそうに、「あの…その…ゴミとかは見なかったことにして……くれないわよねぇ…」と苦笑した。「……今度来る時までには掃除しておくから…」「…もう……私の知ってる蛍さんはこんな人じゃなかったんですけど………」「アハハハ……」 三年の間に、蛍さんはどうやら変わってしまったらしい。だが、また私を家に呼んでくれるつもりであることに気づいたら、もうそんなコトどうでもよくなった。今は。

「そういえばさ…お夕飯どうする?」「どうするも何も何処かで食べないといけませんけど…」 確かに私たちは夕方からずっと働き詰めだった。食事などしているはずがない。丁度腹の虫も鳴きそうな頃合いである。「あのぉ〜…非常に申し上げにくいのですが……」「はい…?」「アタシ料理できないし…外食する気力もないからさ……お夕飯作ってほしいな♡」「はぁ……」 呆れた人だ。「先輩…人にソレ頼むよりに台所片付ける方が先だと思うんですけど…………」「わああぁ!待って待って急に先輩呼びに戻さないでぇ〜 ちゃんと片付けるから〜」「ところで食材と調理器具はあるんですか?」「………………」「今日はもう出前をとりましょう」「はい………」 しょんぼりとした蛍さんに何か良くない感情が湧きそうになったが、それが何なのかはまだ知らない。

「ねぇねぇ円香ちゃん」「何ですか?」 夕餉もとり終え、二人で談笑していたときだった。「アタシ、明日から学校とバイト ズル休みして旅に出るんだ」 ………? 突拍子もない発言に私の世界は凍てついてしまったようだ。「え? どういう……」「ん? だから旅に出るの」「いえ…全く意味が解りませんよ…」 彼女は本当に 私の記憶の35ミリフィルムに映る蛍さんなのか疑わしくなるほどに、蛍さんは変わってしまったらしい。アナタは規則ルールを破ったり、他者に迷惑をかけることをあんなにも嫌っていたではないか。「………ほんとに…ほんとに変わりましたね…」「へ?」「何故だか、私の知っている蛍さんじゃないみたいです……」「………………色々…あったんだ…」「…何が…何がそんなにもアナタを変えてしまったのですか…?」「話せば長く…長くなると思うわよ……」

思えば、あの時私はどうかしていたのだろう。「じゃあ…私を……私を拐って行ってくださいよ」「………えぇ!? 突然何を「アナタの旅に…ついていったら……時間…できるでしょう?」 私の発言に蛍さんは困惑しているようだ。まぁ仕方ないとは思うけれども。「でも…学校ズル休みしちゃうのはマズイと思うんだけど…」「それは蛍さんも同じですよ…」「……うーん…弱ったわね…」 とにかく、私の同行を認めさせるために、もっと、私の想いを知ってもらわないと。確証もないのに漠然とそうしなければいけないような気がする。「実は…私、今の世界が厭で厭で仕方がないんです…」「クラスの奴らは首を縦にばかり振るし、振らない奴を袋叩きにしては同調を強いてくる…ある意味閉塞的な人間関係に疲れたんですよ…私は………」 早口で、赤裸々に胸の内を明けた私は、蛍さんをじっと見つめた。 蛍さんは 何か思うところがあるのか、硝子細工のような手をモジモジとさせて俯いている。「………だから、私と逃げてほしいんですよ…!」 勢い余って握り拳が机をばんと揺らした。 もうどっちが旅に出ようとしていたのかわからないや。「……………」「……嫌…ですか……?」「…………………」「………そんなに…そんなに熱烈なラブコールを受けちゃ仕方…ないわね…」 と、ちょっと長い沈黙の末に、蛍さんはほんのり口紅が落ちたピンクの唇を開いた。「ゎ…! じゃ、じゃあ…!」「えぇ………二人で…二人だけで逃げちゃおっか」

斯くして私たちの逃避行が始まりを告げようとしていた。ただ、流石に明日即出発はお互いよろしくないとの結論に至ったため、延期して来週の土曜に出発するつもりだ。 今日はもうすぐ明日になろうと月を地平線に沈めて、天岩戸をこじ開けようとしている。 私もさっさと空っぽの家に帰らないと…終電には間に合いそうだが、それでも私は少し小走りで、名残惜しさを押し殺して、駅へと足を運ぶ。まるで幼子のような笑顔で。